出演は高木三四郎、三田佐代子、豊本明長、吉田豪の各氏。
「プロレスはなぜ、つまらなくなってしまったのか」という問いに三田氏は「今でも面白い」と即答。この時点で番組の聴きどころは終了してしまった。
「以前は見てたけど今は流れを追うくらい」、「でも、プロレスという概念は好き」という吉田豪的な立場を掘り下げて欲しかった。そこに答えがあるからだ。
ただ、現場にいる人たちが「今でも面白い」というのは当然だ。実際、行ってみると面白い。問題は「なぜ、つまらなくなってしまったか」と言われてしまうのか。自分なりに探究してみた。
1.最近のプロレスは「ちゃんとしすぎている」。
テレビが日本でスタートしたとき、誰もが夢中になったのがプロレス中継であった。元来プロレスは誰が突然見てもわかるもの。大衆演劇だったのだ。
時代を経て、大衆演劇が細分化され小劇団化した。そのぶん、“ちゃんと”エンタメとしてそれぞれ完成度は高くなっているのだが、ビギナーは興味があっても何から観ていいかわからない。「つまらなくなってしまった」のではなく「わからなくなってしまった」のである。
プロレスは、テレビと相性がよいベタな娯楽からサブカルのひとつとして落ち着いたのだ。当然、現場の人は「来てもらえば面白いはず」と明るく答える。
2.「凄すぎて0点」。
それなりの試合の終盤になるとカウント2.9合戦になる。白熱する。逆に言えば観客は試合前から中身が保証されたものがこれから繰り広げられると知っている。でもそれって退屈じゃないか?安定したプロレスなんて悪い冗談じゃないか?
それでも盛り上がるのは、あまりにも皆「プロレスはプロセスだ」という概念に染められすぎてしまったからである。プロレスの見方の教育が行き届き、観客がお上品になったのだ。「おい、とにかくそいつを早くブっ倒せ!」という、単純でお下品な見方はもはや絶滅に近い。実はそっちのほうが楽しいのだけども。
プロレスから格闘技へファンが流れたのは、なにもレスラーの質の低下ではなく、質が上がりすぎた観客が原点回帰した(単純でお下品へ)のが要因のひとつだと私は思っている。
技も進化しすぎた。私は「雪崩式○○」という大技が苦手だ。コーナーの最上段から技をかけるやつ。あれを見るといつも「さぁ、ふたりで初めての共同作業でございます」という結婚式のMCが頭によぎる。
進化しすぎる大技の攻防を森達也は「悪役レスラーは笑う」(岩波新書)で、「試合はどんどん過激になる。技の危険度も上昇する。興行や視聴率という数字で客がそれを求める。いったんこの競争原理の構造に嵌ると、抜け出すことは難しい。これはまるで現行のメディアの状況だ」と述べている。
「凄いものが見たい」という受け手の欲望を忠実に追い続けると、やがてそれは麻痺し「虚無」や「相対化」に行きつかないか。「凄すぎて0点」にならないか、メディアでもプロレスでも。私は既に「凄すぎて0点」感をプロレスに感じている。
(このあたりのプロレスと超絶技巧についての考察は拙著「東京ポッド許可局」第4章【完璧すぎる=おもしろいドラリオン論】に詳しい。)
3.「プロレスという概念」の喪失。
「プロレス」という概念は、いまやプロレスの外でこそ見かけないか。たとえば「AKBの総選挙こそプロレスだ」と、少なくない人が言っていた。
ここでいう「プロレス」とは「世間に届く仕掛け」であり「世間が見ても興味を持つ」もの。もっと言えば「ミソもクソも混然としたダイナミックなもの」である。
猪木などはいまでも「対世間」を訴えるであろう。ところが先に述べたように「プロレス本人」は今は小さく落ち着いて自活しているので、そんな要望は大きなお世話なのである。エンタメとして楽しんでいる今のファンも同じ思いであろう。
だからかつてのプロレスに興奮した人たちはプロレス以外で「プロレスぶり」を探している。「今のプロレスはつまらなくなった」というのもこの層からの発信だろう。それは間違いでないが、肝心のプロレス側には必要とされない小言となっている。
4.プロレスファンにはユーモアがあった。
昭和からのプロレスファンは屈折している。プロレスを軽蔑する人間には憎悪を燃やすが、いっぽうで純粋にプロレスを信じ感動だなんだと大声で言ってる人間には「こいつは馬鹿なのか?」と見下すクセがある(本当にめんどくさい)。
それというのも昭和プロレスファンには「八百長」問題があったからだ。プロレスが八百長という問題ではなく、「プロレスみたいな八百長を、あんなレベルの低いものを、お前は好きなのか」という暗い自問自答問題である。
いちばん好きなものを半信半疑で見てるという特殊な立場。
しかし、それが進むと不思議な諧謔をプロレス者は身につける。「こんなくだらない自分」と自ら笑ってみせる術を会得し、日常でも応用できたのだ。それは往々にして他者との会話を潤沢にさせる。そして「本当はくだらないなんて思っていない」という毅然さも若干漂わせている。つまりこれはユーモアの精神だ。
私は昨年書いた「松本人志=ユーモア、ウィットのスイッチヒッター説」で、
松本人志においてコントや映画とは「諧謔(ユーモア)」の追求なのだ。「自分はもっと志を高くありたいのに、でもどうしようもない」という苦笑い。おかしみの表現。こう考えていくと、次回作の映画で「野見さん」を主役にする意味もわかるではないか。
と書いた。
あらためて考えてみると、八百長という宿命を背負ったプロレスを好きなファンも「ユーモアがある」と思えないだろうか。そう、私の知っているプロレスファンにはユーモアがあった。
「私の知っている」と書いたのは、番組終了後にさっそく吉田豪がツイッターで「今のプロレスを知らないのに語るな」的なことを言われ絡まれていたからだ。
私は、「つまらなくなったのはプロレスではなくプロレスファンではないか?」としばし思った。
もしプロレスファンだというなら、もう少しユーモアと、ニック・ボックウィンクルのような懐の広さがあっていい。
たかがプロレスだが、本当に多くのことを学んだ私が言うのだから間違いない。
参考・「松本人志=ユーモア、ウィットのスイッチヒッター説」
http://orenobaka.com/?eid=1786